死の淵から生還し、生き方の発想を変えた。

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死の淵から生還し、生き方の発想を変えた。

ICDの電ショックは、まるで猪木の張り手?!

山川 清太郎

 

 

左:インタビュアー佐藤 右:山川 清太郎さん
左:インタビュアー佐藤 右:山川 清太郎さん

第一回目のインタビューは死の淵からの生還者(サバイバー)の山川さんです。 元々、消防の救急車で救命士として乗務していた小澤ですが、消防を退職後8年ほど救命士の専門学校で教育のICT化に取り組んでおりました。そんな中、iTeachersという教育ICT系の集まりの忘年会の二次会、「実は私も、心臓止まってるんですよ。」と衝撃の告白。

そのお話の内容は、10年の現場活動の中でも中々聞けない、大変驚くべき内容で、多くの方に知ってほしい生の声でした。

今回はそんな山川さんの声を記事にしました。インタビュアーは自らも薬剤師を目指している薬学部学生でインターンの佐藤がつとめます。

どうぞご一読ください。

救急救命士 小澤 貴裕

 


 

今回のインタビュアーの佐藤です。現在私は薬学部4年生になり、大学では症例を扱う機会が増えてきました。患者さんという「主人公」を中心に情報収集をして、病気の原因や治療法を探っていく作業はまさにインタビューそのものです。そこでインタビュー経験が初めての私は、授業を参考にまずは山川先生の背景から伺っていこうと考えました。

 

今回インタビューに答えていただくサバイバー 山川清太郎さん

山川清太郎 1976年生まれ。関西大学大学院文学研究科フランス文学専攻博士後期課程単位取得退学。ロータリー財団国際親善奨学生としてベルギー・モンス大学に留学。現在は京都学園大学、京都薬科大学でフランス語を担当。教科書として「クリスタル」(駿河台出版社)、「ヌーヴォ―!」(朝日出版社)他執筆多数。

 


 

山川先生、今日はよろしくお願いします。

本題に入る前に、山川先生がどんな方でいらっしゃるのかについて伺いたいのですが教えていただけますか?

今年の5月で42歳になりました。もう12年くらい前、30歳のときからフランス語を教えています。世の中で役に立たない仕事をしています。(笑)

ーいやいや、そんなことはないです!(焦り)

フランス語教員を目指されたのはどうしてですか?

なった理由は…大学生のときにフランスに1年くらいいたら面白くて。気が付いたらずるずるとこの道に進んでいたという感じです。語学は好きですよ。

ご家族は?

74歳の父がいて入院中で健康状態はかなり悪いですね。母は12年くらい前に肺がんで亡くなりました。1歳下には妹がいます。

さて、今日の本題は「心停止」ということですが、山川さんのご家族やご親せきなどで以前に心臓を悪くされた方はいましたか?

ぼくはちょっと太っているんですけれども(笑)、ぼくが高校1年生の頃、母方の祖母が急に倒れて、いわゆる心筋梗塞だったと思うんですが、誰にも気づかれないところで倒れていたみたいで亡くなっていたというのはあります。母方の伯父は腎臓を悪くして57で亡くなりました。母親もちょっと太っていたので、母方が肥満の系統というのはあるみたいですね。

「いつかは自分も大病するかも。」という心配はありましたか?

若いころは食事や飲み物を好きにとっても平気だったし、病気のことは全然意識しなかったです。

いずれなるかも、とは思っても、具合が悪くなったのが30代の中ごろでしたからね。自分が病気と付き合って生きていかなきゃいけなくなるのが、まさかこんなに早くなるとは思わなかったですね。

 

 

最初の違和感 , 80のおじいちゃんの心

 

体調が悪くなり始めたのはいつ頃のことですか?

2010年の夏頃、やたら汗をかくんですね。もちろん夏だったから暑かったというのはあるんでしょうけど、でもそのわりには汗をかくなと思いましたね。

「その汗の量尋常じゃないよ」

って人から言われた記憶があるんです。駅の階段を上ってるとしんどくて、(疲れかな?)ってまず最初に思ったけど、疲れとは違う感じで。当時は今の状態につながるとは思わなかったですね。

その頃、仕事で大阪に用事があって行くことがあったんですけど、調子が悪くなって、大阪駅の宿直室で3時間くらい寝かせてもらったんです。そうしたら救急車を呼ばれて、近くの病院で緊急の検査をしました。

今となってはその時に何かあったんじゃないかと思うんだけど…。血液検査をしたら心筋梗塞の酵素が出てないし異常もないと言われて、その日は運ばれただけで日帰りできました。でも、救急車で測った心拍数が200を超えていて、それは(えっ!)って思いました。これが最初の違和感かな。

その後はどうなりましたか?

2011年の震災から少し経って、新学期の最初の授業が始まる頃ですね。ベッドに横になってると息苦しくてしんどかったんですよね。(これはちょっとおかしいぞ。)と思ったんです。

24歳から痛風をわずらってその薬を毎日飲んでいたんですけど、3月はものすごく忙しくて病院も行けなくて薬も飲んでいなくて、それが関係しているのかなあと思いました。そこで近所の病院の紹介で、大学病院の循環器内科で検査入院をしたら、

「あなたの心臓は80歳のおじいちゃんくらいの動きしかしていないですよ。」

と言われたんです。血栓がつまって、心臓の3分の1が動いていないとのことでした。

それから、近所の病院では月に1度、大学病院では半年に1度の検査をするようになりました。

このあと、覚えている限りそこまで気になることはなかったと言うか、それほど記憶が無いですね。少しはしんどかったかもしれないけど、仕事の制限も無かったし、とにかくものすごく忙しくて。副業もしていて、週に1日休みがあればいい方でした。

 

電車をり換えようとしたら急に意識が消えた!

2014年3月7日 、来年度の授業の打ち合わせで京都に行っていたんです。打ち合わせを終えた翌日の夜、お酒を飲んだんですね。次の日、岡山に帰るんですけど飲んで遅くなったんで、いったん大阪に行って一泊して、それから岡山に行こうと思いました。

京都に行く前日の血圧が66/33mmHgで、(壊れてるのかな?)と思っただけだったんですけど、今から考えると嫌な予感はしてたなと思います。

大阪駅近くのカプセルホテルに泊まって、そこのサウナに入ったんですけど、上がろうとしたらものすごくしんどかったんです。服がなかなか着られなくて、普通だったら2,3分で着られるのに、20分くらいかかったんじゃないかな。

サウナを出てホテルから大阪駅まで行く時、片道10分もないのに、1歩進んで、休んで、を繰り返して、1時間くらいかけて行ったような記憶があります。

大阪駅の券売機で切符を買うときに、

「兄ちゃん、すごくしんどそうだけど大丈夫か?」

と聞かれて、よっぽどしんどそうだったのかなと思います。

途中の相生駅で、岡山行きの電車に乗り換えるのに電車を降りようとしたときです。ホームに降り立ったような気がしたら、そこでパンと記憶がないんです。

目が覚めたら仰向けになっているような感じで、起き上がろうとしたら、「救急車を呼んでいるから起きちゃダメ。」と止められて、そこから1分くらいかなあ…。ものすごく早く救急車が来た記憶があるんです。たまたま早く来たのかも知れないけど、

(俺、どのくらい記憶無くしてたんやろ。)と思いましたね。

担架に乗せられて救急車で近くの病院に運ばれたんだけど、

「うちでは見られない。」

と言われたんで、別の病院に運ばれたんですね。酸素マスクをされた状態で上を向いておくしかなくて、(また運ばれるんか。)と思ったときに、(ちょっと相当やばいのかな。)と考えました。

転院搬送されて…。

搬送先の救急室で

「ご家族を呼びます。」

と言われて、(そりゃ呼ぶやろな。)と思ってたら、針を刺されたりして、本当だったら痛いはずなのに、そう思う余裕もないほど息苦しかったです。マスクをつけて酸素が入って来てるはずなのに息苦しかったっていう、変な感じがしましたね。

「処置をして効果が出なかったら、”全身麻酔”をしますからね。」

というようなことを言われたときに、(あ、俺、死ぬんやな。)って思いましたね。

「全身麻酔=死」とすぐ考えられたのはどうしてですか?

母が亡くなった時、全身麻酔をかけたんで自分も死ぬのかも、と考えたんです。

お父様と妹さんがいらしてからはどうされましたか?

父親と妹が病院の電話ですぐに来ました。

普段高速なんて乗らない60代後半の父が高速を乗って来たんですよね。ということは、自分が相当悪い状態だと言われたのかな、と思いました。

妹と話したとき、「あれはかなりやばかったんだよね。」と、ちらっと一言、言っていました。

ふたりが来てからは、とりあえず、「ごめんね。」という話をしましたね。

その時の病名はなんと言われていましたか?

確か、「心不全の増悪」と診断されていた気がします。

痛みは感じていなかったのですか?

痛みは無かったかな…。とにかく息苦しかったんですね。それが一番記憶に残ってます。

処置のためにマスクをしてしんどかったけど、あるときふっと息が楽になったんですよ。息苦しさが和らいできたというか。ああ、処置が効いてきたんだなと思って。ああ、死なないんやなっていうのと、死にそびれたなっていうのと…いろんなことを思いましたね。

山川先生は、数時間の処置を受けた後、HCU(*)に1週間入院、その後一般病棟で2週間の入院となったそうです。大学教員の仕事は春休み中であったため、穴を開けずに済んだそうです。

(*)HCU(High Care Unit:ハイケアユニット )重症度が高く、高度な治療、看護処置が必要な方、大手術後の管理が必要な方を受け入れる病室。

介助生活は、辛いものがありますね。

「早く自力で歩きたい。」「自力で生活したい。」「自分はどこにいるんだろう?」という状態でした。とにかくこの拘束されている状態から自由になりたい、という気持ちでした。

その後、一般病棟に移ることになって、3月31日に退院(入院期間24日間)となったんですけど、実は退院の4日前、研究会シンポジウムの司会があって、行かせてくださいと頼んだんです。

安静にしていないといけないような状態なのに仕事?それはどうしてですか?責任感なのでしょうか?

責任感もありましたけど、何より、自分で企画したことだったので、「自分でやりたい。」と思ったんです。その後、医師からは仕事は無理のないように、できるだけ自宅にいるように、無理しないようにと言われていました。

 

 

2度目の卒倒については?

7月の半ば、睡眠時無呼吸があったため、ASV(*)をつけて寝ていました。

家でシャワーを浴びて、その後散歩に出て5分後急に意識がなくなって倒れました。

(*)ASV (Adaptive Servo Ventilation マスク式人工呼吸器)主に心不全などの危険因子である中枢性睡眠時無呼吸を解消するための人工呼吸器。

この頃、体を動かそうと散歩していたんです。

周りに人がいない田んぼ道でした。風呂でののぼせが頂点に達したような感覚がして、頭が真っ白な状態から、急に暗くなりました。ブラックアウトというか。後から調べたら、心室細動(*)みたいな症状でした。(病名は不明)気がつくとうつ伏せになっていました。メガネが飛んでしまってたんですが、放置して家まで帰りました。左目見えなかったんですが、とにかく早く帰ろうとしました。

(*)心室細動(致死性不整脈の一つ。除細動(AEDなど)の適応波形。心臓が痙攣していて血液を送り出せていない状態。)

家に帰って鏡を見たらお岩さん状態になっていて、顔が血だらけでした。うっすら目が見えたので失明はしてないんだと安心しました。

119番通報をして救急要請をしたら、普段のかかりつけの大学病院ではなく眼科の緊急医のいる国立病院に搬送されました。それが土曜日のことだったので、週明けに市民病院に行ったところ、その場で入院となりました。前回倒れた時と違って予兆(疲れやすい、息切れ)がなく、(倒れたことによって頭を打って)脳挫傷が起きていました。(入院期間1週間)

退院して3日目、かかりつけの大学病院を受診したところ、仕事以外は、家にいることになりました。

この時は歩いて帰れたのですね。

自宅まで徒歩で4、5分の距離で、多少は時間がかかったかもしれませんが、(とにかく早く帰ろう!)と考えていたのを覚えています。

 

ICD埋め込みの痕
ICD埋め込みの痕

 

8/1 ICD(*)を植え込むテストのため1、2週間入院しました。

テスト中に一度ICDが作動したことがあるんですけど、猪木に張り手されるような感覚がありました。半年にいっぺんの大学病院受診で、倒れたら119番通報をして大学病院に来ることを約束して、仕事をしていました。

(*)ICD (Implantable Cardioverter Defibrillator 植え込み型除細動器) 体内に植え込む除細動器(電気ショック)であり、心室細動などの致死的不整脈を止め、心臓を本来の動きに回復させる医療器具。

 

胸に埋め込まれたICDの硬い感触は、山川先生の明るく軽い語り口との対比を感じさせるものでした。
胸に埋め込まれたICDの硬い感触は、山川先生の明るく軽い語り口との対比を感じさせるものでした。

 

生き方の発想をえた

ICDを植え込んで、障害者手帳1級・障害年金2級になりました。自分は長生きしないからこそさまざまな制度によって生きられるようにされているんじゃないかな、と考えています。この措置で金銭的な負担は少し軽くなりました。

専任講師の仕事量は(激務のため)こなせなく難しい、結婚も難しいと思うんです。

「非常勤で得られる分のお金で無理をしないで生きよう。」

「生き方を変えよう。」

「発想を変えた生き方にしよう。」

と考えました。

頑張りすぎないで楽しく生きていこうと、生き方の発想を変えたんです。

卒倒前と比べて、現在、行動面での変化はありますか?

今、薬以外でケアしていることは、できるだけ歩くようにしているということと、eお薬手帳です。忙しくて飲み忘れることがあるので、リマインダーをフランス語で入力しています。

山川先生は、他に、ご自身の心拍数の管理のために、Apple Watchを愛用されておられました。Coaido119も登録済み。

 

「朝の薬を飲みなさい!」「夕方の薬を飲みなさい!」と命令調でフランス語のリマインダーがセットされています。 ※画像一部加工済
「朝の薬を飲みなさい!」「夕方の薬を飲みなさい!」と命令調でフランス語のリマインダーがセットされています。 ※画像一部加工済

 

「eお薬手帳のiPhoneアプリで、出先でも困らないように薬の管理をしています。」 ※画像一部加工済
「eお薬手帳のiPhoneアプリで、出先でも困らないように薬の管理をしています。」 ※画像一部加工済

 

ルーレットを回しているような日々。

それでも、

向いてないことより向いてること、

しいこと、

やりたいことをりの人生でやりたい。

 

精神面での変化はありましたか?

視野を広げて見方を変えるようになりました。

老後どうするかじゃなくて、近い将来のことを考えて生きているんです。 割が良くなくても楽しいことをしたいんです。例えば、500万円の貯金をすることは僕にとっては意味がなくて、月の収入でどうにかできればいいというような感じです。病気になる前よりも、人生に対してもっと気楽に、と考えるようになりました。

障害者手帳を利用して遠出するようにもなりました。それで東京の人との繋がりが増えたり、フランス語の世界だけにこもらなくなりました。

毎日くじを引いているような、ルーレットしているような感じがあるんですよ。穴に落ちると、死んでしまうかもしれない。またその穴が増えていく、次にまたハズレに当たる確率があがっていくというような感覚ですね。

「あの時死んでいたらよかったんじゃないか」と考える日もあります。またアレと同じ経過をたどるのはつらいな、だからあの時死んでいたらよかったんじゃないか、と。

それでも、動けるときに動きたいし、面白いことをやりたいです。

向いてないことより向いてること、楽しいこと、やりたいことを残りの人生でやりたいです。

 


 

インタビューを通して

「突然意識を失って倒れた」という強烈な出来事を2度も経験されているとは思えないほど、山川先生の第一印象や話し方は明るいものでした。

一方で、インタビューの端々に出てくる「死」というワードは、その明るさとは裏腹に生々しく、緊張感を感じさせられました。

「楽しく生きたい。」「面白いことをやりたい。」と力強く生きる山川先生の姿は、そんな複雑な感想を抱いた私にはとても格好良く見えました。

 


 

佐藤理玖 1993年生まれ。東京都出身。明治薬科大学薬学部薬学科4年在籍。(好きな科目は薬理学と症例解析。ハモネプ好きがきっかけで医療系アカペラサークルMedicalMusicUnionに所属。)現在Coaido株式会社インターン生としてPR・広報を担当中。


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救急救命士として10年間消防署で勤務、その後救急救命士の専門学校教員を8年しておりました。その後教育ICTの楽しさ、奥の深さから現場に使える最先端技術を追求。気づけば救命アプリCoaido119の開発メンバーから取締役COOに。昨年12月に立ち上げた非営利型一般社団法人ファストエイド(FastAid)では共同代表理事。

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